明治、大正,昭和の犬

 ほぼ自然な形で連綿と続いてきた日本犬であったが、明治にはいると様相は一変します。
急激な欧化思想、舶来万能の風潮に乗って輸入された洋犬によって、日本犬の雑種化が
意図的に広範囲に行われてしまいます。
このことに理解のなかった市井人の飼育する街犬(つまりは純粋な日本犬)が撲殺されたり、
さらには、”全国の地犬に洋犬を交配して犬の改良を図るべし”という暴論まで
当時の蓄犬界に出ていたというほど、酷い時代でした。
また、興業としての闘犬が全国的に流行ったこともあり、ヨリ強い犬を作るため、
交雑をしたり、軍用犬としての大型犬育成の目的もあったとは聞いています。
とくひどかったのは秋田犬で、大型化、洋犬との交雑化を積み重ね、
地犬の秋田マタギ犬とは似ても似つかない秋田犬が作出されています。
その原因が、闘犬で土佐闘犬にボロ負けしたから、という話がなんとも・・・(^^;
#この犬種の流れは、今でも「アメリカアキタ」として残っています。

この様な状況のもとで大正末期になると、純粋な日本犬は都会から姿を消してしまい、
山岳の猟師の元で猟犬として働いている犬の中にも、血統の怪しいものが出はじめていました。

この頃学術的な見地から、初めてに日本犬の保存の必要性を説いたのは、
当時内務省にあった史跡名勝天然記念物保存協会と、民間でこの運動を実践したのは、
斎藤弘吉氏です。
#政治的にも、大正末になると日本は列強に肩を並べ、国威高揚、日本原産物の
#再評価が行われました。
斎藤氏は各地に残存する、純粋日本犬の実態を調査しながら、昭和3年6月に『日本犬保存会』を創立し、日本犬保存運動を展開しました。
この運動に大きく寄与したのは文部省による天然記念物指定でした。
昭和6年に第1号として秋田犬が指定され、甲斐犬、紀州犬、柴犬、北海道犬、土佐犬(四国犬)が指定されていきます。
こうして、日保をはじめ各犬種団体により「日本犬標準」が定められ、日本犬の基準が定められました。
日本犬、という概念もこの時に出来たモノだと思います。
順調に日本犬の保存、固定化が進んだかというとそうでもなく、
既に進んでしまった交雑を戻しきるいとまもなく、第二次世界大戦が始まります。
戦中は食糧不足・戦中の非常策などの理由から、軍用犬、食用・毛布用や、
そうでなくても人間優先の配食のため、日本犬は一時絶滅の縁に追いやられます。
特に中型〜大型の犬はぎりぎりの処まで行ったようです。

戦後再び保存運動が再開されますが、その際は野山に逃げ込んだ半野生のイヌたちから
復興させた系列もあります。
戦後は狩猟用ではなく、愛玩用、コンパニオンアニマルとして広く定着し、
飼育される場所も元々の生息域以外にも、各犬種とも日本全国広く飼育されるようになりました。

こうして今に続く「日本犬」が形作られていったのです。。

  

   

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