古墳時代(古墳〜奈良)の犬

古墳時代になると、すでに弥生時代に始まっていた人々の階層文化がさらに進みます。
この時代、各地にみやけ倉(朝廷の穀倉、御料地)がおかれ、これを警護する為の
「犬養部」もおかれていたことが日本書紀の記述から分かっています。

したがって、この頃の犬は狩猟の他に、番犬として、あるいは穀倉での
ネズミの駆除などの役目をもっていたと、かんがえられます。
中国・山陰地方を原生息域とする石州犬がいまでもネズミを捕る習性があるのは、
この時代からの遺伝継承の現れでしょう。
この祖先は朝鮮半島西南端の珍島犬につながっていて、韓国ではネズミ捕りの名手として知られ、
天然記念物に指定されています(この種はさらにモンゴル犬へと続いていきます)。

また、6世紀頃になると、仏教の伝来とともに、犬だけでなくウシ、ウマ、ニワトリなどの
肉を食べることが禁じられるようになりました。
実際にはその後も、わずかながらイヌを食べる習慣が残っていたんですが、
明治時代以降は欧米の動物愛護思想の影響からか、ほとんどなくなりました。

この後、江戸時代を過ぎるまで大きな歴史的変化もなく、犬たちは各地で固定化され、
地犬化していきます。
固定化されたのは、意図的なものではなく、それだけ当時の往来が不便だっただけです。


江戸時代の犬

外国から犬が、輸入されたのは古く仁徳天皇の時代に百済から鷹犬が献じられたと伝えらています。
江戸時代になると、外国との交流も盛んになり、大名への献上品として、座敷犬や
大型犬(南蛮犬・唐犬)が入ってきます。
スピッツを元にしたとされる座敷犬は「狆」として固定化されます。
唐犬は大型の猟犬が多かったようですが、大名行列の先触れ犬として、
また、猪、鹿などの狩猟犬として用いられ、諸大名が競って飼育したといわれています。
しかし、これらの輸入犬は限られた地域社会(特権階級)で飼育されたもので、
当時の日本犬(地の犬)に与えた影響は、極めて軽微なものでした。
市井には、江戸末期まで各地に純粋な日本犬が存在し、飼育されていました。

徳川家御鷹部屋の御犬方であった,中田家伝来の秘伝書では、こんなことが書かれています。
『犬の形は顔面より額へ掛けて開き、耳小さく前へ少しかぶり、口吻短く、鼻黒く、胸より前足
 開き、胴太くつまりて、後足前足よりも高く、丈は人の膝の下にありて、尾は差し尾又は,巻尾
 にて毛はつまりて,太くこわき、是を犬形の最上とす』 
この記述は現代の柴犬の見方に通じるところが多く江戸時代の幕府御鷹部屋では、このような
犬を目標にした繁殖と固定化が行われていました。


  

   

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